こどもの病気の対応
―いじめについての考え方@―
ある日突然に、どこかの中学校の生徒が自殺をした、というような記事がメディアに流されます。そして遺書には、「いじめ」にあっていたことがほのめかされたり、具体的に加害者(たち)の名前が記されていたりします。しかし、担任の先生も校長先生も「思い当たるフシはない」「調べてみたけれど、該当するような事実はなかった」と発言します。それどころか、しばしば当の生徒の親でさえも、「うちの子が自殺をするような悩みなどなかったと思う。全く気づかなかった」と言うのです。

これは一体どういうことなのでしょうか。これから長い人生を生きられたはずの子どもたちが、現実に自ら死を選ぶほど追いつめられていたというのに…。 なぜ、いじめは、親自身も含めて、周囲の大人たちには「見えない」のでしょうか。

  【いじめは、なぜ見えないのか】

これまでにも、いじめに関する出版物は数多くあります。「学校が悪い」 「加害者も被害者も、家庭に問題がある」 「いじめられる側にも責任がある」 「現行の受験制度・競争社会を放置している政治が悪い」、「いじめは日本の文化である」など…。

そこで、この問題を考えていく前提として理解しておくべき、重要な論文をご紹介します。
いじめの政治学 中井久夫 「アリアドネからの糸」 みすず書房 (1997、8、8第1刷) 所収 (注:中井氏は、97年3月に神戸大学医学部教授を定年退官された、精神科医)

中井先生によれば、いじめは、孤立化、透明化、無力化の3段階を経て完成するとのことです。いじめの力動(ダイナミクス)あるいは、政治学を理解するには、この本で指摘されていることを、共通の前提として議論することが必要であると思います。まだ中井先生の本を読まれていない方には、ぜひご一読をお勧めいたします。
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