新春のお慶びを申し上げます。
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当院は昨年1月18日に新規開院しましたので、ちょうど一年を迎えました。患者さんたちとのコミュニケーションの場になるような月刊のミニレターを目指して、この通信を発刊いたします。 ふくろうは、当クリニックのイメージキャラクターですが、ギリシャ神話ではミネルヴァといって学問の神様です。不苦労とも書けます。受診時に、お母さん方が夜も安心して眠れるようにお子さんの病状について詳しく説明をしたい、という願いを込めて、夜の見張り番としてのイメージを伝えたいと思っています。 |
【自己紹介】私は昭和27年11月福岡県田川市で出生しました。現在44歳です。昭和52年に長崎大学医学部を卒業後、福岡大学病院小児科に勤務しました。平成2年から3年までカナダのモントリオール大学に留学しました。専門は小児の膠原病・リウマチ性疾患および小児内分泌疾患です。低身長と、アトピーや気管支喘息などのアレルギー疾患の診療は、わが子で悩んだ経験から特に力をいれております。また子どもの心身症や、不登校、いじめの問題などに対するカウンセリングを、専任の心理士の先生(福永聡子先生)に担当してもらっております。私はこのクリニック内では、白衣を着用しておりません。それから小さい子どもさんの診察の時には、椅子からおりて、子どもの目の高さでの診療を実行できるように心がけております。趣味は読書、鯛釣り、冗談をいうことです。【職員紹介】看護婦長の田中照子さんは、以前に私がパートで勤務していた福岡市の小児科医院にお勤めだったというご縁で、一緒に仕事をしていただくことになりました。小児看護のベテランで、私とはあ・うんの呼吸で診療活動を分担してもらっております。患者さんに説明する際に用いている各種のイラストは、お嬢さんのオリジナルです。看護婦の中尾章子さんは、福岡大学付属高等看護学校の学生時代に私が講義を担当した師弟の縁です。助産婦として産婦人科、小児科、未熟児センターなどで仕事をされ、特に新生児の看護に強い方です。時々、院長と掛け合いギャグ漫才をやります。 松永京子さんは、内科外科系の勤務経験が豊富な看護婦さんです。クリニック受診者の5%は成人の患者さんですが、私は成人は苦手なので、受診されると思わず彼女の姿を探すことになります。 受付事務担当の榎本悦子さんは、医療事務のベテランです。当クリニックでもレセプトコンピュータを使っていますが、使いこなすのは人間の仕事。彼女のおかげで、私は診療に集中できるのです。 心理士の福永聡子(さとこ)先生は、他の職員と違い、制服を着用しておりませんので、はじめの頃は院長の(年齢の離れた!)奥さんかとしばしば間違われました。家族療法を専門としています。新婚さんです。 受付事務には時々家内も座っております。よく笑うのが特徴です。大体制服を着用しております。3人の子持ちです。時々、院長のギャグを聞いてアーアという表情をします。 【KH君追憶10首】1月8日の夜に親友のKH君が亡くなりました。享年47歳でした。山鹿市に父親の開いた内科小児科医院を継いで14年、早すぎる死でした。私が福大病院に就職した翌年、彼は福大医学部の一回生として卒業後、小児科に入り、半年の間私と同じグループで研修を受けました。180センチ余りの体格なのに、童顔で人なつっこい瞳と笑顔、いつも相手の顔をまっすぐに見つめながら、少し屈みかげんに小さな声でぼそぼそと喋る人でした。未熟児センター勤務の時に、受け持ちのベビーの容態が悪くなり、当直だった私と一緒に、処置を検討したことがありました。私の方は途中で寝てしまったのですが、翌朝センターに戻ってみると、彼は徹夜で働いていたらしく、「先生うまくいきましたよ、良かったあ。」と言って疲れた顔をほころばせていました。また日曜日の当直明けで教授回診の日に、持病の喘息をおこして苦しそうにしていたこともありました。 2年半前に自分で大腸ガンを発見したのですが、最初の手術の時には、福大小児科の助教授とともに、私も代診として山鹿に呼ばれました。その後再発のため入退院をくり返し、痛みと闘ってようやく天に召されたのです。亡くなる5時間ほど前に、入院先の九大病院で最後のお別れをすることができました。 多くを語らず、常に他人に分かち与え、自分はわずかしかとらない無欲の人でした。福大小児科の誰もが彼の高潔な人柄を愛していました。私が子どもたちに行っている医療の姿勢にも、彼から学んだことが少なからず影響しているのです。奥様と2人のご子息を残し、志半ばにして旅立たねばならなかったKH君の無念を想い、ここに個人的な思い出を拙い歌のいくつかに託します。
【研修医の頃】
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