病気を通して知ること、学ぶこと
久能恒子 x 一木貞徳
この文章は、1999年暮に行われた対談原稿に補筆したもので、久能恒子先生の著書「医療ミス」(文園社、2001年)中の第5章「癒される医療を求めて」に全文が収録されています。この著作は医療過誤について、基本的な図書になるものと考えますので、関心のある方は是非、著作の全体をお読みください。なお、対談の全体をこのHPに転載させていただくにあたり、著者の久能先生および(株)文園社よりご快諾を得ましたことを深謝いたします。
−目次−

患者と医師が共有できる判断基準をもつこと

病気の程度を判断し、受診のタイミングを考える
医師自らの判断ミスをチェックするために
体の病気と心の病気の両方に通用する原則
一つの病気を経験するたびに会得してほしいこと
インフォームド・コンセントの前に必要なこと
医療の本質とは
心の交流が生まれる診察室


患者と医師が共有できる判断基準をもつこと
久能 一木先生にお話をうかがいたいと思ったのは、過去に勤務先の病院で医療過誤を体験されたときに、真実を隠すことなく、ご自分の責任において開示されたということをうかがったからです。私はどうしても医療のマイナス面、隠ぺい体質を見てしまいがちですが、先生は不都合を隠す古い権威主義ではなく、医療の大きな恩恵を生かすために、医師と患者の関係を模索しながら診療しておられるように思います。
患者さんからの評判がよいことも、よくうかがっております。今日は患者の心得も踏まえて、日常診療のなかで実践しておられる先生のお考えをお聞かせください。
一木 医療者は病気についての専門家ではありますが、一人の人間としては病に苦しむ病人と異なりません。人間としては同じ土俵にある存在なのです。それを一歩進めて、病気そのものについても、病人と医療者との土俵を同じにしたいと私は考えております。両者が病気について共通の判断基準をもてれば、医療への不信も減らせるのではないかと考えているからです。
久能 共通の判断基準というと具体的にどんなことですか?
一木 たとえば、子どもさんが夜間に発熱したので、大変な病気ではないかと心配して急患センターに駆け込んだところ、この程度では心配ないからわざわざ夜に来なくてもよい、これは急患ではないといわれてがっかりした。逆に、せきが長く続くので、まあ念のためと思って受診したところ、結構悪かった、連れてくるのが遅いですねといわれた、という類の話をよく聞きます。
久能 でも、そんなことは日常診療では珍しくありませんよね。
一木 どうも医者の判断基準と患者さんやご家族の判断基準とがまったく違うことに原因があるのではないか、と思うわけです。あるいは、治りが悪いからと前医に相談がないまま別の医者を受診する場合に、前医と現医の判断基準が異なり、受診する側にとまどいを引き起こすこともあります。医者の判断基準も一人ずつ違ったり、一人の医者でも一貫していないことがありますね。
久能 私もよく経験しています。そういうことをなくすためにも、診断と治療について、本人あるいはご家族が納得いくまで、十分な時間をとって説明をするべきだと思うわけですが、時間的な制約をカバーするような工夫をなにかされていますか?
一木 うちは小児科だけですので、子どもさんの受診を前提として話をしています。受診された段階で、家族の側に、これは大したことない、これは中くらいだ、これは重い、といった病気の程度に対する判断をしてきてもらう、そして公開された同じ基準で医師も判断する、というトレーニングを私は開業以来、ずっとやっております。
久能 公開された基準とは?
一木 病気の程度を「食べる・眠る・遊ぶ」という三項目で見分ける、というものです。「食べる」のなかには、よく食べて、よく出して、その結果順調に成長する、ということが入ります。「眠る」というのは、すやすや眠って順調に成長するということですね。受験生などの特殊な状況を除けば、昼夜逆転の人は、「眠る」が危なくなっていると判断するわけです。
これに対して、「遊ぶ」という項目には、食べること、眠ること以外のすべての活動が含まれます。学校や塾に通うことも「遊ぶ」であり、赤ちゃんですと機嫌よく笑っておもちゃに手を出す。成人では、きちんと仕事をする、趣味、家族とのかかわり、知的好奇心に基づく人間の活動全般を「遊ぶ」という言葉でひとまとめにしてみたわけです。
病気の程度を判断し、受診のタイミングを考える
久能 「食べる・眠る・遊ぶ」が基本的に大切であるということは直感的にわかるのですが、それと病気の判断とはどんな関係にあるのでしょうか。
一木 「食べる・眠る・遊ぶ」の三拍子がそろって良好に保たれている人は、熱やせき、下痢があってもそれは軽症である、反対に三拍子がそろって悪い人は、重症かかなり悪い状態である、ということがいえるのです。三拍子のうち、一つもしくは二つが悪い人は中程度なのです。
久能 家族にとっては、確かに病気の程度も大切でしょうが、もっと知りたいのは、どんな病気かということではないでしょうか?
一木 受診時点では、それがどんな病気であるかを家族は知らなくてもよいのです。ただ、いつ受診するべきかは知っておかなくてはいけません。
たとえば、夜間に39度の発熱があったとしましょう。そこで急患センターでも行っておくべきか、それとも明日まで様子を見てよいものか迷いますね。そのときに、三拍子がそろってよい人は、あわてて受診しなくてもいいのです。翌日、かかりつけの医療機関が開いてからでよい。
逆に、三拍子がそろって悪いと判断されたなら、急いで受診しなくてはいけません。その判断は子どもさんの場合には、家族がするわけです。「食べる・眠る・遊ぶ」ができているかどうかは、医者の判断ではなくて、家族が観察するべきことですから。
久能 病人の「食べる・眠る・遊ぶ」を冷静に判断して、受診のタイミングを誤らないように努めるのが、家族の果たすべき役割というわけですね。
一木 さらに、熱の程度やせきの程度、下痢の回数などは、直接重症度を反映しないという事実もぜひ知っておいてほしいことです。39度の発熱は38度の発熱より重症か、あるいは下痢を10回するほうが2回の人よりも重症かというとそんなことはありません。個々の症状の軽重は、病気自体の軽重を反映していないのです。
家族にしてみれば、39度あるから、大変な病気に違いない、すぐに診てもらわなくてはとなりがちですし、一方、毎日微熱がでているけれど、37度5分くらいだからまあ受診するほどのこともないか、となってしまうわけです。症状にこだわると、肝心の「食べる・眠る・遊ぶ」に目が届かず、受診のタイミングを間違えやすいのです。
久能 症状の軽い重いは病気自体の軽い重いを直接反映していないというのは、確かにそうでしょうね。
一木 家族にとっては、どんな病気であるかが一番知りたいことでしょうが、それは診察を受けてはじめて明らかになることですから、受診時点では知らなくてもよいのです。「食べる・眠る・遊ぶ」の三拍子がどうであるかだけを、正確に医者の側に伝えることが必要です。私はそれで、軽症、中等症、重症を判断します。判断の基準は素人でも専門家でもまったく同じなのです。
久能 「食べる・眠る・遊ぶ」で判断した軽症、中等症、重症と、実際の治療方針とはどのように関連するのでしょうか。
一木 三拍子がすべてよい、すなわち軽症と判断した方は、内服薬の処方や吸入療法などを中心とした通院治療が主体になります。食べて眠れて動きまわっている人は、要するに、どんな症状であっても外来治療でいいのです。
久能 それでは中等症と判断された場合にはどのような対応を?
一木 軽症に転じる人と、重症に転じる人と両方が含まれるわけですから、この中等症の判断が一番難しいですね。三拍子のうち一つ悪いか、二つ悪いかで異なりますが、処方箋だけで帰宅させることはほとんどありません。
診断を正確にするために検査をするか、治療的には点滴をしたり、あるいは一定時間ベッドに臥床させて、症状の時間的推移を観ます。ただちに判断するのではなくて、ある程度の時間的な幅をもって観察するわけです。
久能 判断の見極めがつくまで、とりあえず観察するということですね。
一木 そうですね。軽症に変化する、つまり自宅で家族に観察させてもほぼ大丈夫という見極めがついた時点で帰宅させますね。もちろん家族には観察のチェックポイントを詳しく説明し、翌日か翌々日に必ず再診してもらうこと、夜間に三拍子がすべて悪いほうに傾くようであれば、ためらわずに夜間急患センターを受診してもらうように指示します。
久能 昼間の診療のときと違う事態に変化していった場合にも、家族が対応できるよう事前に教育しておくということがポイントですね。
一木 内心、かなり心配しながら帰宅させたのに、翌日はすっかりよくなったというケースも多いですね。なかには再診をスッポ抜かして、その後どうなったかわからないケースもあります。受診されなくても連絡はしてほしいですよね。こちらは結構悩んでいるわけで(笑)。
医師自らの判断ミスをチェックするために
久能 やはり、病人・ご家族の側にも守ってもらうべきルールというか、受診のマナーというのがあると私も常々感じています。ところで、「食べる・眠る・遊ぶ」の三拍子がすべて悪い場合にはどんな対応を?
一木 それはだいたい重症なケースですね。どんな病気であるかには関係なく、三拍子がそろって悪い状態というのは、少なくとも医療者の監視下におくべき事態であることを意味しているのです。処方箋一枚で帰宅させてはいけないですね。三拍子が悪くてぐったりしている場合は、観察せずにそのまま帰宅させてはいけません。
久能 とにかくその原則を守れば大きな失敗はないということですか?
一木 確かにこの原則を守り通すことができれば失敗はないはずですが、実はそれでも大きなミスは起こります。どういうときにミスが起こりやすいかというと、三拍子が悪い、だから重症あるいはそれに準じる状態であろう、という判断になるはずなのに、検査もせずに患者さんを帰宅させてしまった場合などです。
あとで検討してみると、夕方遅い時間帯の受診で検査を見合わせてしまったとか、その日に研究会や学会が予定されているときとか、こちら側になにか時間的な焦りがある場合に起こっています。時間に追われて、なんとなく判断停止、思考停止のまま帰宅させてしまった。自分でつくった判断基準に、自分自身が背いた行動をしているわけですね。その場合、家族の側にも、これは医者の判断ミスであるということははっきりと見えているわけです。私自身が経験したいくつかの痛恨のミスはすべてこのタイプのミスです。
久能 医者の側に時間的な焦りがある場合にミスが起こりやすいというのは、経験的によくわかります。それと、今のお話でもっと大事なことは、判断基準が同じであれば、医者の判断ミスが家族の側にも見えている、ということですね。医療過誤というものを考えるうえで、かなり重要なポイントになるような気がします。
体の病気と心の病気の両方に通用する原則
久能 小児科という、全科的に見ると特殊な診療分野で、しかも急性疾患で、かつ基礎疾患がない場合、というように多くの制限をつければ、「食べる・眠る・遊ぶ」原則は有効であるというわけですね?
一木 この原則は人間だけでなくペットにも使えるのですよ。子どもだけでなく、赤ちゃんからお年寄りまですべての年齢に使えますし、体の病気だけでなく、心の病気にも通用します。
私たちは、なにか悩みごとを抱えたときに、それが深刻なものであるほど、食事がとれずやせてきますし、子どもでは成長が止まります。夜も良眠できないため、表情はすぐれず、輝きが消えて笑顔も少なくなります。仕事の能率や学業成績は低下し、夫婦関係、家族関係も悪化します。つまり心の悩みでも「食べる・眠る・遊ぶ」は悪くなり、それは「はた目にもわかる」のです。
久能 先生の診療所では臨床心理士を置いて心の相談をしておられるそうですが、心理カウンセリングでも「食べる・眠る・遊ぶ」は有効でしょうか?
一木 どのような相談事例にも必ず、「食べる・眠る・遊ぶ」の様子を尋ねます。たとえば、学校現場で問題になるいじめなども、被害者本人がよく食べ、よく眠り、ちゃんと学校に行けて成績にもひびいていないのであれば、そのいじめは周囲が騒ぎ立てるほどのものではないでしょう。「はた目には異常が見えない」からです。
しかし、被害者が登校できないところまで追い詰められていれば、「遊ぶ」ことができない状況と判断されます。そのような子どもは食事も進んでとらず、睡眠も不規則になり、腹痛や頭痛を訴えて登校を渋るようになります。すべてが「はた目に見えて」きます。子どもの発するサインとは、「食べる・眠る・遊ぶ」の異常にほかなりません。これは成人でも変わらないはずです。心の病気の人を診るにあたって、銘記すべき原則だと思います。
一つの病気を経験するたびに会得してほしいこと
久能 でも一人ひとりの受診者に、そういうことを毎回説明していたら、とても時間が足りないでしょうし、個々の病気の説明ができなくなってしまうということはありませんか?
一木 どんな病気で受診されても、初診のときには、個別の病気の説明だけで終わらず、必ずこの原則を説明していますから、二回目からは短時間ですむようになるのです。たとえば、はしかの子どもさんが受診されたとして、ご家族にその病気の説明を詳しくすると、「あの医者はよく病気の説明をしてくれる」と喜んでくれます。
しかし、「なるほどはしかという病気はこういうものだ、次からは気をつけるぞ」と思ったとしても、もうその子どもさんは二度とはしかにはかからないわけです。そしてやがて忘れた頃に、弟や妹が同じ病気に罹ると、「熱が出た」といってまた駆け込んできますよね。個別の病気の説明だけでは学習効果が低いのです。
久能 次に別の病気をしたときに、前の経験が生かせないということですね。
一木 そうです。せっかく苦しい思いをして病気を経験したのに、そこでマスターすべき重要なことがスッポリ抜け落ちているわけです。今回の病気は高い授業料になったけれども、文字通り体を使った生きた教材なのですから、転んでもただでは起きない心構えで、「食べる・眠る・遊ぶ」原則をマスターしてほしい。それが病気の代償として得られる大きな学習効果だと思います。
久能 個々の病気の解説よりも、病気全体に通じる普遍的原理の説明のほうがより重要なことであるというわけですね。病気に罹ることをネガティブにとらえるのではなく、回復する過程で次につながるなにかを学んで欲しいと。
一木 そうですね。現在の病気さえ治療してあげれば、本来それで医者の役目としては十分なように思われがちですが、しかしそれではいつまで経っても同じことの繰り返しにすぎません。車が故障したら修理工場に持ち込む。修理してもまた故障するからまた持ちこむ。その繰り返しにすぎないのです。
インフォームド・コンセントの前に必要なこと
久能 「食べる・眠る・遊ぶ」というのは、医学用語ではありませんよね。当たり前の日常言葉が、実は非常に大切な概念であるということですね。
一木 ええ、受診者の側はどのような病気であるのかを考える必要はなく、ただ、すぐ受診するべきか、あわてなくてもよいのか、それを知っておかなくてはいけません。それは実は日常の言葉で理解できるのだということです。
こういうことは、大学の医学教育や卒後教育のなかで系統的に教えられていないのです。病気と健康の基本ともいえるこの原則は、医学教育よりも、本来は中学校や高校の保健の授業で教育されるべきでしょうね。
久能 医療関係の職業に携わる場合も、家族の病気であわてない親となるためにも、知っていて損はしないことですね。
一木 やはりインフォームド・コンセント以前に必要なもの、病人と医者の共通の土俵づくりを日常の言葉で構築していかねばならない、それこそが医療の専門家が担う役割であると思っています。
久能 はっきりした共通の判断基準を病人と医者が共有しておくことは、医者にとってもありがたいことだと思うのですがいかがでしょう。
一木 そうなんです。夜間などに状態が思わしくない方向へ変わったら、そのときに行動を起こすべきか否かを家族に判断していただかないといけません。それが患者さん自身の命を守ることにつながるわけです。
また逆に、夜間急患センターを受診する小児科急患のかなりの方が、実は翌日の受診でもよい内容だと考えられていますから、親の不安心理を軽減させる説明をふだんの診療で意図していけば、時間外の小児科受診も減るかも知れません。
医療の本質とは
久能 ところで、先生ご自身はなにか病気の経験はおありですか?
一木 もちろんあります。診療中に体調が悪くなって休診することになったときに、あるご家族の方が、「今日は先生のほうがうちの子どもよりもきつそうに見えました。やはり体調が悪かったのですね」と声をかけてくれました。とてもうれしかったですね。自分の子どもさんより体調のよくない者への心配りが、ちゃんとできているのです。
久能 本当に、医者といえどもいつ医療を受ける側になるのかわからないですね。私もある医師会での講演で、多くの医師会員を前に、「みなさんは死ぬときにも白衣を着て死ねるわけではないですよ。死ぬときは患者さんとして死ぬのですよ」と発言したことがあります。病人になった瞬間から、医者も患者へと変わるのですから。
一木 医療の本質は、少しでも体力の残っているほうがより体力の少ない者の面倒を見る行為であると考えています。医療者と患者とは絶対的な健康の差をもつ存在ではなくて、相対的な差であるにすぎないわけですね。今日の医者も明日は患者になる、それは間違いないことです。だから医者であるときも病人であるときも同じ人間である、同じ存在であるという気づきが、とくに医療者の側に求められていると思うのです。私たち医療者が、患者さんから学ぶことも多いですし。与える側と与えられる側という関係ではないですね。
心の交流が生まれる診察室
久能 子どもさんの診療で、なにか特に心がけておられることがありますか?
一木 私は保健所での乳児健診などを除いて、白衣は着けていません。白衣でなくとも、明るい色の清潔な衣服であればなんでもいいと思うのです。
また、小児科の医学教育で、小児科医は子どもを相手にするだけではなくて、本当の相手は母親であるということを学びます。とくに乳児や幼児ではそうです。つまり小児科医は、診察のときには子どもを抱いた母親と視線を同じにしているわけですね。すると子どもに対しては、視線が高い位置からになります。ところが書物には、こどもの目の高さで接しなさい、と書いてあります。
実はこの両者は矛盾するものでは決してないわけですが、あえて私は、診察のときには椅子から下りて床に膝をつき、子どもさんの視線と自分の視線を同じにして、直接子どもさんに話しかけながら診察をするようにしています。「こどもの目の高さで接する」という原則を愚直に守っているわけです。
久能 それにはなにか理由がありますか?体力的にも困難だと思いますが。
一木 お母さん方のなかには、ご自身の子どもさんとの適切な距離を取れない方がおられるのですね。わが子の抱き方にも自信なさそうだし、すぐに抱き上げようとしますし、逆に赤ちゃんをベッドに置いたまま、医師の説明をしっかり聞くことに注意を集中する方もおられます。叱り方にも感心できないケースがあります。
そんなときに、椅子の上から、「お母さん、それはちょっと…」となにか専門家としての助言をしたところで、聞く耳を持たない方や、過剰に反応する方、理解できない方がおられます。でもよく考えてみると、そのお母さんは、ただご自身の成長過程でよい母親モデルを体験するチャンスがなかっただけなのかも知れません。子どもさんの目の高さで話しかけることで、その様子を少し上から母親に見てもらうのです。
久能 育児態度を言葉でたしなめず、モデルを見てもらうということですね。
一木 ええ、母親だけではなく、父親や祖父母の方がいれば全員にその様子を見ていただく。それを繰り返すうちに、少しずつ、子どもとの適切な距離の取り方がわかってくるのではないか、と期待しているのですが。
久能 母親の育児不安が児童虐待に結びついているのではないかという指摘もありますが、子どもと母親の安定した距離の取り方も、よいモデルを見て会得されていくわけですね。
一木 そうですね。要は、言葉で指導する姿勢ではなく、態度で示す姿勢をご家族に共感していただければいいわけで、どのような診察姿勢であろうが、きちんと子どもさんやご家族とコミュニケーションがとれればよいのです。もともと医者というのは診る以上に観られている存在だと思うのですが、とくに子どもさん相手の小児科医というのは、診療場面でのかかわり方がその子どもさんの人格形成にも影響しかねないと思っています。
久能 私も小児科医として、家族の方に不安を与えない医療、特に子育てで悩んでおられる若いご両親を支えていくことがとても大切だと感じています。そろそろ時間ですが、最後に一つ。報道メディアでは、毎日のように医療事故が伝えられていますが、医療過誤についての率直なお考えをお聞かせください。
一木 医療に携わる一人ひとりが、自分もいつか医療過誤の当事者に立つことがあり得るという気持ちで日々の仕事を行う、もしも当事者となった場合には情報をできるかぎり開示する、ということではないでしょうか。医療行為を続けるかぎり、医療過誤の問題を避けては通れないという自覚が必要だと思います。当事者になったときにどのような対応をとるかで、その医師の医療人としての識見だけでなく、人間としての倫理も問われるわけですから。
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